2010年2月25日 『神楽坂キーワード第2集 粋なまちづくり 過去・現在・未来』寄稿
神楽坂キーワード第2集制作委員会が発行する『神楽坂キーワード第2集 粋なまちづくり 過去・現在・未来』(2010年2月25日発行)にて「熟成のとき」「伝統芸能」「神楽坂まち飛びフェスタ」「エッセイ ケイコもマナブ」を寄稿しました。
熟成のとき
連日多くの来街者で賑わい、数々のメディアに頻繁に取り上げられ、テレビドラマの舞台にもなった「神楽坂」の名は、いまや全国区である。
これをブームと呼ぶこともできるかもしれないが、神楽坂はその時代時代に、このまちを愛し、その本来の魅力を掘り起こしたいという人たちが知恵を出し合い、何十年もかけて一つ一つ積み上げてきたことの重層であって、一時的な浮き沈みに通じるブームとは、少なからず異質のものであろう。
たとえば、「神楽坂まつり」の「阿波踊り」が始まったのは昭和46(1971)年。当時、地下鉄出口誘致などにも積極的運動をしていた商店主たちが、商店街に多くのお客を呼び込もうと始めたもの。それから毎年欠かすことなく、今年で39年目を迎えるに至っている。
1980年代後半からのバブル景気とその崩壊、神楽坂も時代の波に呑まれた浮き沈みを経験したが、バブル崩壊後の沈滞ムードの中で神楽坂の価値の再発見を目指して、平成7(1995)年には「神楽坂で伝統芸能を楽しむ会」や「街なみスケッチ会」などが始まっている。そして平成11(1999)年には「まちに飛び出した美術館」が開催され、それを受け継いだ「神楽坂まち飛びフェスタ」は今年12回目を数える。
2000年代からは、まち全体を巻き込むような企画が続々登場した。地元の長老らからまちの歴史などを聞く「まちづくり塾」、まちなか芸能の賑わいを再生しようと始まった「毘沙門寄席」。「ゆかたでコンシェルジェ」を契機に活発化していったボランティアによる「まちあるきガイド」。そして、地元住民が神楽坂の宝、花柳界文化を応援しようと始めた「花柳界入門講座」など料亭・芸者衆との協力企画は、神楽坂に新たなファンをつくることにもなった。
こうした積み重ねを軸に、さらに、路地の個性的なお店が連携した企画「ヨコロジー」、日仏交流イベント「ギャルソンレース」等々、個人、個店、NPO、商店会等が自由に緩やかにネットワークをつくって、まちに多様性の魅力を加えているのがここ数年の神楽坂なのである。
ワインは熟成によって、味わいと香りに複雑さと奥行きが生まれるという。経年による円熟味は、熟成によって最も魅惑的な味わいに変化、飲み頃を迎える。神楽坂のたどってきた道は、ワインの熟成に似ていないだろうか。時代やお客に媚びるのではなく、自らの真の価値を地道に求めてきた結果、今まさに熟成のときを迎えた。おいしいワインには多くの人が群がる。ただし、飲み頃を過ぎればおいしいワインも、ラベルの名前は変わらずとも劣化を始める。今こそ良い状態を保つためのさらなる努力と、次の深い味を求める新たな挑戦が必要に違いない。
伝統芸能
名前の由来が、そもそも芸能の原点「神楽」である神楽坂は、江戸の昔から、芸能のまちとしての性格を色濃く持ち続けている。江戸末期、藁店の高座から生まれた「都々逸」が一世を風靡し、また、花柳界誕生とともに三味線、唄、踊り等が盛んになった神楽坂は、明治、大正、昭和と、いくつもの寄席や演芸場、映画館が集まり、東京でも有数の賑わいのまちとして発展してきた。
戦災で一旦は焼け野原になったものの、戦後、毘沙門天が再建されると、4代目三遊亭金馬主催の「毘沙門寄席」がスタート。毘沙門天の高座を経験した人気噺家は数十人に及ぶ。これが、現在も定期的に開催される「毘沙門寄席」や「七転八倒の会」、居酒屋など界隈各所で行われているまちの落語会へとつながる、神楽坂の庶民芸能の系譜となっている。
また、東京六花街の一つである神楽坂は、年に一度の芸者衆総出の舞踊公演「神楽坂をどり」のほか、小唄や常磐津、三味線などのお稽古場が多くあるなど、江戸の粋と艶を伝える芸能の灯も守り続けている。
そんな芸能のまちには、尾崎紅葉、夏目漱石、坪内逍遥などが闊歩した時代から現在まで、多くの文化人、芸能人が暮らしてきた。
その中でも、特に日本が誇るべき伝統芸能を担う方の多くが、この界隈に現在も居を構え、もしくは活動の拠点としている。たとえば、日本を象徴する芸能、能楽の観世九皐会が拠点とする矢来能楽堂や、人間国宝に指定されている能楽の亀井忠雄氏、箏曲の山勢松韻氏、長唄の東音宮田哲男氏、新内の鶴賀若狭掾氏、歌舞伎音楽長唄の鳥羽屋里長氏など。また、「春の海」で知られる箏曲家・作曲家の宮城道雄が晩年まで暮らした地には、日本で最初の音楽家の記念館、宮城道雄記念館がある。
こうした神楽坂では、能楽堂やホールから、寺社、小さな料理屋、ギャラリーに至るまで様々な場で、能楽公演、箏曲、新内、常磐津、長唄などの邦楽演奏会やワークショップなどが頻繁に催され、誰もが身近に親しむことができる。まさに日常の中に伝統芸能が深く息づくまちなのである。
平成21(2009)年には、このまちに縁のある人間国宝など第一人者の競演「日本の伝統芸能絵巻」と、やはり神楽坂に縁の深い噺家を集めた「神楽坂落語まつり」などで構成された、伝統芸能イベント「神楽坂伝統芸能」が始まった。こうした新しい形のイベントも含めて、伝統芸能の素晴らしい価値は確実に伝えられ、神楽坂に奥深い魅力を与え続けている。
神楽坂まち飛びフェスタ
毎年秋の約2週間、まちの文化祭「神楽坂まち飛びフェスタ」が神楽坂全域を会場に開催される。平成21(2009)年で11年目を迎えたフェスタには、能楽、箏曲、小唄、常磐津、茶会、お座敷遊び、落語から、演劇、映画やダンス、ライブ、スケッチ会にアート展示、ワークショップなど、伝統からモダンまで多彩な文化企画が70以上も結集した。
そして、フェスタの最終日、文化の日に行われるのが、路上大アート・パフォーマンス「坂にお絵描き」。神楽坂通り全長700mの坂道に幅90㎝のロール紙を敷き、道行く人々に自由にお絵描きを楽しんでもらうこの名物イベントに加えて、平成19(2007)年からは新たな人気イベント「ギャルソンレース」が始まった。飲み物をのせたトレーを片手に速さを競うパリ発祥のこのレースの仕掛人は、「フランス人が多く住む神楽坂で、日本人と外国人がどうやったら一緒に楽しめるか」を考え続けていたフランス料理店オーナーである。
こうして、いまや花柳界から地域の外国人までも含め、神楽坂で文化活動をする人たちがこぞって参加するまでに成長した「まち飛びフェスタ」であるが、もともとは平成11(1999)年、沈滞ムードにあった神楽坂を何とか活性化させようとする「まちおこし」から始まったものであった。タウン誌『ここは牛込、神楽坂』を発行していた立壁正子さんとアユミギャラリーの人たちが、神楽坂に息づく芸術性に着目し、アートイベント「まちに飛びだした美術館」を企画したのである。ギャラリーや店舗約70が一斉にアート展示を行うと同時に、「坂にお絵描き」もこの時に始まった。
その後、神楽坂ゆかりの伝統芸能なども加え、「神楽坂まち飛びフェスタ」と改称し発展していったが、平成15(2003)年、実行委員会の様々な事情が重なり、開催自体も危ぶまれる危機を迎えた。しかし、地元有志の「せっかくのイベントを何とかつなげたい」という強い意志で危機を乗り切り、平成16(2004)年からは新しい実行委員会体制のもと、毎年参加企画数を増やしながら、内外に広く認知される文化イベントとして成長してきた。
そして、それを支えているのはすべて、ボランティアの人たちである。年齢も職業も住所も多彩な実行委員、学生や地元劇団員など若者を中心にした数十名の「坂にお絵描き」スタッフ……「暇を持て余している」という人たちは一人もいない。みんな神楽坂が好きで、参加することが楽しくて、時間をやりくりして集まってくる。そしてまた次の年も。規模は大きくなっても、「まち飛びフェスタ」はあくまでも、こうしたボランティアによる手づくり文化祭なのである。
ケイコもマナブ
新住民の私が神楽坂のまちづくりに関わって、あっという間の6年である。
振り返ればあっという間の6年なのであるが、6年といえば、小学1年生が一丁前に生意気な中学生にまで成長する年月である。いい大人が今さら成長することもないと思うだろうが、これが、神楽坂で暮らすと、何歳だろうが成長するのだ。マナブのである。
マナビ、その一。一本筋を通すこと、ブレないことが、幸せへの道。
例えば、イベント企画。運営に携わるからには、手がけるイベントの規模がどんどん大きくなるのは嬉しい。いろいろな人が関わってくれるのは何より喜び。もちろんそれは間違ってはいないのだろうが、ちょっと調子に乗って浮ついた感じになっていると、私をハッと思いとどまらせるような一言が、周囲の誰かから必ずある。「規模が大きくなっても、それが本当に神楽坂らしい? ちゃんと目が届く、心が通い合うようなイベントであり続けられる? そもそも何のために始めたイベントなの?」
神楽坂にも紆余曲折、浮き沈み、ゴタゴタ揉め事は当然あるとはいえ、まちを愛する人たちが、何十年も地道にまちづくりをやってきたまちである。だから、一本筋が通っている。流行りだとか、マスコミにちやほやされるとか、そういうことには基本的に惑わされない。時に惑わされそうになっても、大きな流れとしては、本当の意味で神楽坂が神楽坂であるためには、どこへ進むのがいいのか、という方向がブレない。ブレそうになってもそれを押し戻す力がどこからともなく働く。
だから、私にもそういう力が、塩梅良く働く。塩梅良く、というのがポイント。これが高圧的に抑えつけられたり、意地悪でブレーキをかけられたりしているものだったら、反発しか感じないだろう。
マナビ、その二。誰かを思いやる時、応援するときは、さりげなく。それが“粋”。
神楽坂は懐が深い。来るものは拒まず、この街を愛して誠実に働く人には、本当に親切だ。新参者だって、神楽坂の流儀(と言ったってそう難しいものじゃありません)にかなえば、誰かが必ず支えてくれる。
例えば、ことさら頼まなくても、誠実で良質な仕事をするお店の宣伝は、地元の人たちが勝手にしてくれる。しかも、「宣伝しておいたよ」なんて、これみよがしに言ったりしない。自分を応援してくれていることに気づいた方も、それに応えて、神楽坂のために何かで恩返ししたいと思う。そういう温かい循環を、私は神楽坂でたくさん見てきた。
そして、私自身も、面と向かっては特別何も言わない人が、実は他の人に「彼女、頑張っているよね」と言ってくれているということを聞いて、胸の奥が熱くなった経験が一度ならずある。だから、私もできるだけ、他の人にそういうさりげない、粋な応援がしたいと思う。
それがどんなに明日への力になるか、しみじみ実感するから。学校じゃなかなか教えてくれない大人の流儀、神楽坂では、ほんと、教えてくれます。